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共生型サービス? [所長の部屋]

現在、厚労省が『共生型サービス』なるサービス体系を構想しています。

いろいろと資料が出ていて(例えばこちら←クリックするとリンクが開きます)、読むとふむふむと思う部分もあるのですが、全体としてピンときません。

長い間障害福祉サービスを利用してきた人が65歳を過ぎても使い慣れたサービスを使い続けて行けるために、いろいろと知恵を絞っているようです。

でも、これって要するに介護保険優先の原則をやめれば済む話なんではないかと思います。

まあ、『だから全部介護保険に統合しちまおう』的な乱暴な話に(とりあえずのところは)なっていないだけましなのかもしれませんが。

それより今夜の雪が気になります。

『我が事・まるごと地域共生社会』っていう言葉のセンス(のなさ)も気になりますが。

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先入観 [所長の部屋]

突然ですが、辞書が好きです。
特に三省堂の新明解国語辞典が大好きです。
新明解は言葉への思い入れが痛烈で、たとえば『読書』を牽くと“想いを浮世の外に馳せ精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために時間の束縛を受けることなく本を読むこと”とあり、念を入れるように括弧書きで(寝転がって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは勝義の読書には含まれない)と続いています。

なぜ突然辞書の話かというと、日本語辞書の代名詞ともいえる広辞苑の改定があったという話題を耳にしたからです。そのなかで、『肌色』という言葉についての説明が変わった、と。

肌色ってまあこんな感じの色、というのは皆さんそこそこ共通してあるのだろうけど、果たして実際の人の肌の色がみんなそんな感じの色かって言ったら違うよね、だから最近この言葉は色の名称としては使いませんよ、ということのようです。

当を得た話だと思います。個人的にもわたくしは自分が色盲だものでちっちゃいときから肌色ったってわかんねーよと思っていたので、なんとなくすっきりという感じ。

なんでこの話をブログに書くのかというと、これってつまり『なんとなく自明のことであるかのように感じるけど、実はその根拠となっているのはただの先入観に過ぎない』という事象で、そのことに気づかされる場面がこないだ自分にもあったからです。

横浜能楽堂というところがあって、毎年『バリアフリー能』という催しがあるのですが、そこの職員さんを対象にした障害理解および能の舞台鑑賞における知的障害者に必要な配慮を学ぶっていう研修会の講師を申しつかっていて、その打ち合わせでのこと。

『能』という芸術表現があって、その面白さや素晴らしさが知的なハンディがある人たちにどうやったら伝わるだろうかっていうのがお題だったのですが、どうもうまいことまとまらない。

いろいろ考えているうちにふと気づいた。よくよく考えてみればそもそも能が面白いとか素晴らしいとかっていうのは別に自明のことではないよね。能が面白いか、素晴らしいかっていうのはそれを観た人の心の動きにかかっているのに、あたかもそれが了解済みの事項であるかのように考えてそこを出発点にしてたからうまくまとまらなかったんだな。

そうなると、どう伝えるのかとかいうテクニカルな話よりも『どういう環境設定や配慮があったらその場を楽しむことができるのか』なのだろうな、と思いました。

で、そう思って改めてバリアフリー能のあらましをうかがってみたら、面白ければ笑っていいし怖かったら泣いていいしつまんなかったら出て行ってもいいのだと。

じゃあ、別にないんじゃないかな、改めて必要な配慮なんて。

さすがに『別にありません』では研修にならないので、いろいろとお話はするのだろうと思いますが、どうも筋や答えがはっきりしない、しゃべる側も聴く側もスッキリしない研修になりそうです。でも、実はアート領域の人ってこういう出口のない禅問答には意外と親和性があって、障害児者支援の適性が高いのではないかと思ったりもします。むしろ『福祉系』の人のほうが筋や答えを欲し過ぎるきらいがあるような…


ちなみに色の名前にまつわる個人的な疑問はほかにもいろいろあります。茶色がお茶の色なら紅茶とか緑茶ってどういうことなんだ、とか。そもそも赤と緑がわからない人に対して『それって赤に見えてるの?それとも緑に見えてるの?』っていうのが自家撞着だって気付いてほしいですね。

それはそれとして、しもごうまつりの準備は着々と進んでいます。
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読書読書読書 [所長の部屋]

インターネットって便利だな~と思うのです。

何がかと言うと、本屋さんには売ってなくて取り寄せしてもらわないと手に入らないような本がポチっとするだけで届くのが、です。

本を読むっていうのはすごく大切だと思います。
鵜呑みにしてしまうのはよろしくないと思いますが。

しもごうにも本はいろいろ置いてあります。
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おすすめはなんと言っても中央の水玉模様の本。

大事なことがいっぱい書いてあります。

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続;包括ケアってなんだ? [所長の部屋]

いよいよ12月に入りました。今日は寒いです。

先日のブログに書いた包括ケア説明会の件、区役所のお世話になっている係長にお尋ねしたらご丁寧に資料を送ってくださいました。

中身を見たら、視野に入ってるのは完全に高齢者のみ。いろいろ調子のいいことが書いてありますが、要するに社会保障費(介護保険費)の圧縮と公的責任の後退ということなんだろうな、と思います。計画素案の表紙に『避けられない超高齢社会』とか書いてあって、これ平均寿命を超えて長生きしておられる方がご覧になったらどんな風に感じるんでしょうか。

ていうか、対象を高齢者に限定した包括的なケアっていうのは本当に包括的なんでしょうかね。

かと言って『我が事丸ごと』とか意味の分からないごちゃまぜの丸投げみたいなアイデアっていうのもそれはそれで勘弁してほしいのですが。

直前の記事の再掲ですが、『大きく分けると、生活基盤を支える所得保障、医療、介護、障害者福祉、教育、保育などは基本的に国や自治体の責任でしっかり行うべきもので、そこが不十分だと問題は解決しません。(略)税金で行う「公助」と社会保険による「共助」だけでできない部分を住民同士の「互助」で補うのであって、逆ではありません』であり、『まずは、行政責任による給付と公的制度によるサービスをきちんと確保する。それだけでは不十分な人的かかわりを中心に、福祉を充実させる「上乗せ」の取り組みとして総合的な相談支援体制や住民による活動を推進する。それには費用もかかる。そのように考え方を整理すべきだと思います』です。

コミュニティを歳出削減の道具に使ってはいけません。


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包括ケアってなんだ? [所長の部屋]

すっかりご無沙汰してしまいましたが、しもごうは毎日ボチボチやっております。

突然ですが、出勤したらとりあえずメールを確認して、グーグルのニュースサイトに『障害者』と入力して検索することにしています。だいたいヒットするのは虐待がらみ、もしくは補助金の不正受給などのろくでもないニュースです。次に『福祉』と入力して検索します。だいたいヒットするのは東北福祉大の野球部がどうしたとかそういう関係のないニュースです。

でも、時には学びになるニュースやコラムに出会うことがあって、つい最近そういう“当たり”がありました。読売新聞が運営する医療・福祉系ニュースのポータルサイト『ヨミドクター』のなかの『原記者の「医療・福祉のツボ」』というシリーズ、最新記事のタイトルが『「地域共生社会」を考える(上) 公的責任を後退させるな』。

我が事・丸ごととかいう意味不明なキャッチコピーの中身と、それにまつわる問題点についてコンパクトながら要点を押さえた論考になっています。日本において地域福祉という概念がその導入から社会保障費の抑制とセットになっていたことについてはもう少し触れてほしかったところですが、『大きく分けると、生活基盤を支える所得保障、医療、介護、障害者福祉、教育、保育などは基本的に国や自治体の責任でしっかり行うべきもので、そこが不十分だと問題は解決しません。(略)税金で行う「公助」と社会保険による「共助」だけでできない部分を住民同士の「互助」で補うのであって、逆ではありません』とか、『まずは、行政責任による給付と公的制度によるサービスをきちんと確保する。それだけでは不十分な人的かかわりを中心に、福祉を充実させる「上乗せ」の取り組みとして総合的な相談支援体制や住民による活動を推進する。それには費用もかかる。そのように考え方を整理すべきだと思います』とか、まさにその通り。(下)が楽しみです。

この『原記者の「医療・福祉のツボ」』というシリーズはとってもよくて、生活保護についての連載の中でも非常に的確で公正な論述を読むことが出来ます。

などとお前は何様だよ的な駄文ををつづっているのはなぜか。事務室のカレンダーの今日の日付に汚い字で『包括ケア説明会/区役所10:30』て書いてあるのにお昼過ぎに気付いたんです。あきらかにわたくしの字ですが、なぜこれを書いたのか。書いたということは行く必要があるあるいは行くことに意義があると考えたのだと考えられますが、いつなんで書いたんだかどうしても思い出せません。

誰か行った人いたら内容教えてくださ~い。
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続・異文化 [所長の部屋]

というわけで、こないだの続き。

まず、前提として、われわれは差別や選別を否定します。これは我々にとって絶対に譲れない価値/規範であるし、そもそも社会全体にとってもっとも基礎的な価値/規範だと思います。

そのうえで、なんで社労士さんにとってはすごい大事なことについて自分が社労士さんほど大事に思えないっていうのがすごい怖いのかっていう話です。

あなたにとってはものすごく大事なことかもしれないけれど、自分の価値に照らせばそれより大事なことがあるんですよ、とわたくしは思ったわけですが。

でももしかしたら社労士さんは“われわれは望まざる長時間労働を否定します。これは我々にとって絶対に譲れない価値/規範であるし、そもそも社会全体にとってもっとも基礎的な価値/規範だと思います”って言うかもしれません。

それに対してわたくしが“あなたにとってはものすごく大事なことかもしれないけれど、自分の価値に照らせばそれより大事なことがあるんですよ”と思ったということは、わたくしが“われわれは差別や選別を否定します。これは我々にとって絶対に譲れない価値/規範であるし、そもそも社会全体にとってもっとも基礎的な価値/規範だと思います”と言ったときに、もしかしたら誰かに『あなたにとってはものすごく大事なことかもしれないけれど、自分の価値に照らせばそれより大事なことがあるんですよ』って言われちゃうかもしれないってことですよね。

自分にとっては当たり前のことが誰かにとっては当たり前ではないかもしれない、というのは考えてみれば当たり前の話です。ですが、上記のように考えるとちょっと怖い話でもあります。差別はダメっていうのが、実は社会全体のコンセンサスを得られていないのかもな、ってことですから。

でもでも、やっぱりわたくしは差別はダメっていうのは社会の基礎的な規範であると思うし、そうあるべきだと思います。


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異文化 [所長の部屋]

寒いです。しかも週末は台風とか。しもごうのメンバーもスタッフも鼻声がちらほら。

先日、市社協障害者支援センターの監査がありました。監査っていうのは一種の異文化交流だと思っていて、井の中の蛙にならないためにはすごくありがたいだいじな場面です。

支援センターの監査担当職員さんのほかに税理士さんと社会保険労務士さんが来て下さるのですが、やはり、いわゆる士業の方はそれぞれに文化的バックボーンがあって、そういう方のお話を聞いていると自分たちの普段の業務を新しい視点から見ることができます。

熊本に行ったときの職務状況を『なぜこのような長時間労働になるのか』『実際に業務に従事していたことをどう証明するのか』『なぜこのような業務命令が下され得るのか』と質問されても、そんなこと考えたこともなかったな。できることをできるかぎりっていうのが障がい児者支援の文化だと思っていて、それを被災地支援に当てはめるとそういうことになるんだけど、『仕事=指揮命令系統の元で指揮命令によって遂行される』という労務の文化においては全くあり得ないことのようです。

労働法規っていうのは労務士さんにとってはとっても大切なもので、それにもとることなんてあってはならないっていうことなんですよね、きっと。でも、緊急とか突発とかが常にある障がい児者支援の世界では労働法規を金科玉条としていてはやっていけないことがある(かもしれない)。僕らは普段そのことにあんまり深刻な疑問を抱いていないのだけど、これって実はとても怖いことだと思います。

何がどう怖いのかっていうことについては、また今度書きたいと思います。

いや、でも、災害という状況の中での仕事について“ふつうこんな働き方はしない”って言われても…


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ライフステージ [所長の部屋]

秋らしい気候になってきました。見かけによらず夏が苦手な私としてはうれしいです。

先週の金曜日に、内部研修を行いました。今回のテーマは『計画相談について』、おとなり泉区の指定特定相談事業所きくみみの相談員さんを講師にお招きして、制度のこと、実際のケース、見立てやマネジメントのポイントなど、盛りだくさんの内容でした。
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学んだことはたくさんありますが、そのなかでもひとつ肝要な事柄だと感じたのが、当事者のライフステージを意識する視点が大切だということです。ライフステージなんていうと難しい感じがしちゃうけど、要するにオトナなんだからオトナなりの暮らし方を、ということだと思います。

そういった観点から注目すべきニュース(←クリックするとリンクが開きます)がありました。オトナなんだから事業所と自宅の往復で生活パターンが固まってるのって貧しいよね、ということで『第3の場』を確立しようという運動です。

仕事が終わったらまっすぐ帰宅するんじゃなくてジムに行ったりフットサルの練習に行ったり寄り道したり飲み会があったり、そういうのが成人期の暮らしの在り方でしょ、と。

これが単に日中活動の時間を延ばすとかになってしまうのではなく、ちゃんと『第3の場』を確立しようという動きにつながると良いな、と思います。

運動って、大事。



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報告の難しさについて [所長の部屋]

NPO法人活動ホームしもごうには事業所が3か所あって、それぞれがそれぞれに活動しています。スタッフは基本的に固定なので、自分が配置されている以外の事業所のメンバーの様子や活動の内容も共有するために3事業所の常勤スタッフ全員で週に1回ミーティングをしてしています。

情報の共有というのはとっても大事なことであり、とっても難しいことでもあります。特に『報告』っていうのは発信・受信サイドそれぞれ当該の事象についての受け止め方や感覚によるバイアスがかかるものなので、報告された事象そのものだけでなく、その報告を発信する側は受信側の、受診する側は発信側の感覚的なところ(つまりどんなバイアスがかかりやすいかっていうこと)も受け取って(あるいは織り込んで)いかないといけません。このことが抜けると、情報共有はうまくいかないことがあります。

っていうのを実感したできごとが最近ありました。

第3しもごうのスタッフから『里芋が大きくなっている』という報告は、確かに受けていました。
しかし、こんなにでかくなってるとは…
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どうなっちゃうんだろうか、この先。


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1年が経って [所長の部屋]

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津久井やまゆり園で凄惨な事件があってから1年が経ちました。

社会に、そして特に障害児者支援に携わる者にとって非常に大きな衝撃を与えた事件。あれから、自分なりにあれこれ考えたり読んだり聞いたりしてきました。

新聞やメディア上の色々な人の意見にはできるかぎり目を通しましたし(特に青土社の雑誌『現代思想』の特集号は考えさせられる論考が多かったです。このような地味な雑誌に増刷がかかったとのことで、たくさんの人がこれを読みたいと思ったのだと思います)、やまゆり園の家族会会長さんのお話を伺う機会もありましたし(1/22『福祉を創る学校』@港南台ひの特別支援学校)、集会にもいくつか参加しましたし(1/26@県民サポートセンター、7/26@戸塚フォーラム)、やまゆり園のみなさまが仮り暮らしをしている芹が谷園舎での地域交流イベントのお手伝いをさせていただいたりもしました。

そうした様々なことの中で、自分なりに考えたことを書いてみたいと思います。

当事者とその『意思』について。
今回の事件を踏まえて『意思決定(支援)』が大きくクローズアップされています。『意思』っていうのはなにか、なにを指しているのか、改めて考えると、意外と難しいです。けれど、『意思』になるまえの(なるかどうかもわからない)心の動きとか、気持ちの塊みたいなものは、誰もにあります。知的な『障害』がどんなに重度であっても、必ずあります。これは、ここをすべての出発点にしようという約束である(1+1=2みたいなもの)のと同時に、長く現場にいる者としての実感でもあります。だから、“意思決定ができない重度障害者”なるものは存在しようがありません。心の動きや気持ちの塊が『意思』として(ある程度共有可能な形で)提示されるためには、その形成プロセスと表出プロセスをどうやって支援できるか、に尽きます。質問―返答という即時的かつ標準的なフォームに乗ることができるかどうかは関係ありません。表情だとか肌艶だとか身体の動きだとか視線の動きだとか、当事者の『意思の表出』はさまざまです。ときには食欲がある、とか、よく眠れている、とか、そんなことが表現だったりもします。表出に時間がかかったり、キャッチするのが難しかったりしますが、それは本質的な問題ではありません。とにかく、心の動きや気持ちの塊はあるのです。

ご家族の想いについて。
ご家族が本人に寄せる想いの量や密度には、いつも敬意を感じます。自分だっていろいろ考えているつもりだけれど、とても及ばないなぁ、と。
ただ、それはひとまず措いて、それでは家族(今回の件をめぐっては特に親)の想いが常に本人の意思と重なるかと言ったらそんなことは全くないわけです。わたしたちは自分の生き方を決めるにあたって親の望みをどの程度参照したでしょうか。親が望むほど勉強しましたか?親が望んでる会社に就職しましたか?お父さん、初めて娘が家に連れて来たカレシは気に入りましたか?。
家族の望みや想いはどこまで行っても家族の望みや想いであって、本人のそれではありません。かつて(今でもなくなったわけではありません)重い障害のある我が子の将来を悲観して心中というような事件が何度もありました。その時に、本人は死にたかったのでしょうか。否だと思います。
今回の件では、特に建て替えをめぐって家族の想いがクローズアップされています。元の規模で再建してみんなで戻ることが家族会の総意である、と。大変な事が起こったときに、とにかくバラバラにならずにみんながひとつにまとまろうと考えた家族会会長さんの判断は緊急対応として非常に的を得ていたと思いますが、1年が経過した今、100人以上の『親』には100通り以上の望みがあるのではないかと思います。これに関して一つ気になるのは、やまゆり園で暮らしておられるみなさんのなかにはご高齢の方がかなりおられて、そういう方(やその親御さん)はまだ『地域生活』を支えるシステムがほとんど皆無であった時代に施設入所という選択をしているわけで、時代とともにまがりなりにも支援の仕組みができてきましたよ、ということをご存知ない可能性があります。実はこんな選択肢もあるのか、と知ったら、また変わってくる部分もあるのかな、と思います。つけ加えれば、ご本人としても20年とか30年とか入所施設で暮らしていて、いきなり『入所施設で暮らし続けますか?それともグループホームに住みたいですか?』って聞かれたって困るはず。ラーメンとバクテーどっちが好き?って聞かれてるようなもんです(バクテー(肉骨茶)はシンガポールの庶民に親しまれているスープ、とってもおいしいですけど誰も知りませんよね)。

我々自身のすべきことについて。
われわれは『支援者』という立場で(給料をもらって)障害児者の地域生活にコミットしています。そこには『個別支援計画』なんてものがあったりして、介助だったり、見守りだったり、手伝いだったり、アドバイスだったり、ただ待つことだったり、そんなことをしているわけです。だけど、我々がそういう職務をどれだけ濃密に果たしたとしても、それは今回の事件を防ぐ役には立たなかっただろうと思うのです。『重度障害者』の生の価値を否定するという動機によって我々が支えるべき人たちが命を失ったのだから、我々がすべきことは『重度障害者』(を含むすべての人)の生の価値が肯定される世の中をつくることであるはずです。つまり、運動です。当事者にコミットするとともに、当事者とともに社会にコミットすることにこそ我々の存在意義があるのだと思うのです。別にプラカードを掲げてデモをしようとかっていうことではなくて(してもいいと思いますが)、みんなが作ったなにかを誰かが手に取ってくれることだって、みんなと一緒にコンビニに行ったりファミレスに行ったりすることだって、そういう全てを通じて社会に向かって発信してゆくという意図があれば運動なわけです。

そういうもろもろのことをつらつら考えつつ、じゃあ今日からどうすればよいのか、っていったら、結局のところ『みんなと一緒に一喜一憂しつつ愉快にやっていこうぜ』っていうことしか思いつきません。というか、それに尽きます。要するに『みんなが笑って生きられる世の中に向かっていこう』ということです。
“みんなが笑って生きられる世の中なんて価値がない”と思っている人も含めた『みんな』。


っていうような今まで考えてきたいろんなことを、少し大きなステージで話す機会がありそうだったんですが、あまりのステージの大きさにおののいて自分より適任と思う方(シルエットだけでわかる人にはわかる、冒頭の写真の壇上にいる方です)のお名前を出して逃げてしまいました。
自分なりに考えてきたつもりではあったけど、大きな舞台で自信をもって話すほどには考えられていなかったということなのだと思います。

これからも、考え続けてゆきたいと思います。

おまけとして、なんだかなぁ、と思っていることがふたつ。
ひとつめは福祉なんて税金の無駄遣いだ的な意見(ではなくてただのいちゃもん)を意外と目にすること。税とはそもそも再分配の仕組みなので『弱者』のために多く使われるのは当然のことだし、誰もがバリアーなく生きられるためのハードやソフトを整えることが無駄だと言うのならあなたがまずそれを放棄してくださいって話です(例えば障害児者にとっての移動支援はあなたにとっての道路のようなものですが、あなたがドライブしてる時に“お前がドライブする道路を舗装するのに税金がいくらかかってと思ってるんだよ”って言われたりしませんよね)。
もうひとつ、こちらは真剣に腹立たしい、報道の在り方です。
2~3日前に新聞に、この事件の犯人に現在の心境を尋ねたところ手紙が返ってきた、というような記事が新聞各紙に載りましたが、ここに書く気にもならないような無知と偏見と軽薄さに満ちた彼の主張をわざわざ活字にして改めて衆目にさらすことに何の意味があるのでしょうか。“彼の行動や思想を賛美するような風潮が一部にあることを解決するのが社会の責務”などと言うのなら、なぜそのような行動や思想を改めて喧伝するのでしょうか。ある事件の犯行の動機として一度は報道されるべきことかもしれませんが、1年経って相変わらずですなんて情報にはなんの意義も見出せません。犠牲者が匿名であるのは遺族の意向によると言われていますが、ではなぜ彼の主張など目にしたくないし報道してほしくないという遺族の思いは踏みにじられるのでしょうか。報道することの意味や意義についてもっと真剣に考えてほしいです。

ーすごく力を入れて書いた記事なのにアップしてから読み返したら最後が愚痴っぽいので、ここから加筆ですー

運動について考えるときに、いつも思い出すことがあります。しもごうで働き始めて4年ほどたったある日、横浜市立大学の学園祭のなかで『さようならCP』という映画の上映会があって、それを観に行きました。日本における当事者運動のパイオニアである青い芝の会の活動を追ったドキュメンタリー、完成したのが1972年ですからわたくしと同い年ということになります。かなり挑発的な内容でした(というか社会を挑発するために撮られた作品でしょう)。
上映会と討論がセットになった企画だったので、壇上には出演者(つまり青い芝の会のメンバー)の方が何名かおられて、フロアとのやりとりがありました。学生たちからいくつもの質問があって、それに丁寧に答える姿を見ながら、この人たちはこれをずーっとやり続けてきたんだな~、と思いました。たぶん今日フロアから出た質問はすべて今までの運動の中で繰り返し繰り返し聞かれてきたことで、そのたびに何度でも答えてきたのだろうな、と。そして、思い切って質問してみました。“こうやって長く運動を続けているその原動力は何なんでしょうか”、と。そしたら、すぐに“それは憤りです”と答えてくれました。そして続けて“憤りっていうのは、怒りとは違うんです。わかりますか?”と。壇上から思いがけず質問が返ってきたのにびっくりしつつ“わかるとは言えないけどわかるような気はする”みたいに答えたら、“憤りっていうのは、『義』にかかわることなんですよ”と言われました。
たった二言三言のやりとりでしたが、『義』にかかわること、という言葉がとても重く響きました。そして、そうか、自分の仕事も“『義』にかかわること”なんだな、と思いました。仕事を始めて4年といったら、業務については何となく板についてきて、それでは自分の仕事って芯の部分でなんなんだろうかなんて悩んでいた頃で、その悩みに対してなにか答えをもらったような、ふっと腑に落ちるような感覚になったことが忘れられません。
あのとき答えてくれたのは横田さんだったのでしょうか。あるいは若き日の渋谷さんだったのでしょうか(お二方についてはここ数日の神奈川新聞の特集で触れられています)。それとも、どなたかほかの方だったのか。“『義』にかかわること”。その言葉を、これからも忘れずにいたいと思います。
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